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アニメのことが大好きな大浦のブログ。

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ネット配信のアニメ

最近、ネット(というかニコニコ)で配信するアニメが多くて、録画をしないでそっちで見ることが多くなってきています。
ネット配信といえばGyaoを思い出しますね。「幕末機関説いろはにほへと」が昔やってたじゃないですか。スピードグラファーの流れで見てたのですが、Gyaoは飛ばせないCMが入るし、一回ページを移るとまた最初から見直さないといけないしで、結構とっつきにくい感じがありました。(システム管理でアカウントが吹っ飛んだのが一番迷惑でしたが。)
それに対してニコニコ動画はCMもありませんし、画質の悪さに目をつぶればふつうに楽しめるし、それになによりコメントの面白さがあります。去年嵌ったミルキィホームズはニコニコ動画でのアニメ視聴を確実に定着させました。その証拠に現在他の番組が放送されているにも関わらずミルキィホームズで取り扱われたネタばかりがコメントされます。
なぜ、ミルキィホームズはそんなに成功したのか…。それはひとつニコニコ動画のユーザー層とミルキィホームズを楽しいと感じるユーザー層が被っていたことが挙げられます。それはニコニコ動画の昔からあった風習によります。今やアカウント数は一握りのプレミアム会員だけでも100万人を超えています。(えーっと日本の人口が1億人ちょっとなら…。100人に1人はプレミアム!?)そのなかで独自に形成された文化はアニメ制作において決して無視できるものではありません。もはやテレビ放送をするよりもニコニコ動画という広大な広場で1週間放映し続けたほうが確実に見る人は多いでしょう。そこで培われた動画にコメントするという文化、いわば動画に対するツッコミをすることにユーザーは慣れ、そして楽しみを覚えている。ゆえに、ミルキィホームズのようなツッコミ待ちなアニメはある程度の評価を受けたのでしょう。実際、どう考えてもシリアスな灼眼のシャナや禁書目録より、ツコッミどころのあるイカ娘やミルキィのほうが動画に対する熱気があふれています。
もちろん、自分はミルキアン(シャーロキアンのもじり)なので、コメントなんてなくてもミルキィホームズは普通にヲタクが見るアニメとしてのクオリティは非常に高いです。それこそ「けいおん!!」と張れるくらいには。そもそも、他のアニメのパロディをやるアニメは、コアなアニメファンには受けるのでしょう。

またまとまらなくなってきました。
ネット配信と言えば、化物語りの13話以降もネット配信でした。提供はバンダイチャンネルでしたがCMはほとんどなく自然に見ることができました。しかし、テレビでもなくニコニコでもないアニメというのは、いまいち面白さが半減しているように思えます。テレビ放送ではその圧倒的な映像の良さと、リアルタイムで見たいという高揚感があるようです。逆にニコニコはゆるいもののアニメと同時にコメントを楽しむことができ、アニメが終わった後も他の関連動画を見て楽しむことができます。しかし、化物語に関してはどちらとも中途半端な感じでせっかくのシリーズ最終回があまり印象に残りませんでした。

去年ニコニコで放送された作品に「乙女妖怪ざくろ」があります。これはタイトルの通り女の子の姿をした妖怪が戦う話です。テレビで見たらそこそこ楽しめそうな内容だったのですが、ニコニコで見ていたので「イヌーピー」に意識が行き過ぎてまともに作品内容を楽しめなった気がします。ざくろはギャグというよりかはラブコメ要素が強いのでツッコミ待ち作品ではありません。本来製作者側が伝えたかった恋愛のストーリーが見事にニコニコのツッコミの空気でかき消されてとても残念な感じになってしまったような気がします。

このように、一口にネット配信といっても色々な形式がありますし、ネットだけではなくOVA、WOWWOW配信など様々な発信形式がアニメにはあります。(BRSの無料上映会・DVD配布を入れ忘れました。)しかしどれがそのアニメに適した形式なのかということは非常に難しい問題だと思います。特に、ニコニコは雰囲気があれなので、気をつけた方がいいと思いました。私が思ってもしょうがありませんが。
今やっているニコニコ配信アニメで一番合っていると思うのは「カードファイトヴァンガード」。ミルキィホームズファンのコメントがまだ多いもののその空気を新たに上塗りしてくれるかもしれません。あれはネタアニメですから。(作ってる人に失礼か…)

ネット配信も進化してますね…。
全然利用しないのでわからないですけれど。

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漫画文化の根底とするジャンルにおける、作品の時代ごとの分類

0.前文(読まないでいいです。)
こんにちは赤槻です。
最近、新番組がたくさん始まっていますけれど、どうもそっちより人気のあった作品の再放送のほうが楽しく見られてしまうので困っています。それは人気があるだけ面白いということなのでしょうが、自分としては新鮮な楽しさがほしいし、最新の情報はチェックしたい。しかしどうしても再放送の方を優先してしまう。こういうことってありますか?ちなみに再放送を見ているのは、ミルキィホームズ、アクエリオン、マクロスF、ソウルイーター、銀魂、灼眼のシャナとかです。あと何かあったかな…。
まぁこれは本題ではないのでおいておくとして、新番組について感想を書こうかと思っていたのですが、どうも筆が乗らない。というか、レポートをやんなきゃいけないのの逃避で何か書こうかと思ったのですが、何も感想は思いつかなかったので、別のことについて考えてみました。それは「ギャグ漫画」についてです。最近ボーボボを読み返しているからこんな発想になっているのだとは思いますが意外と面白い題材だと思うので文章を書いてみます。そもそも自分の好きなジャンルはギャグもしくは意能力バトルなので、この題材は結構ぴったり(?)だと思います。ちなみに漫画というのは一般的な漫画本のことではなく、アニメも含めての漫画文化のことを指しているのであしからず。
それではいい加減に本文を始めましょう。
 
1.ギャグの共通性
 ギャグ漫画とはなにか?それは人を笑わせるために作られた漫画である。ついつい声をだして笑ってしまうような、もしくは、顔をほころばせてしまうような作品のことである。とは言ってみたものの、ギャグ漫画の定義は極めて曖昧だ。ではギャグ漫画以外の作品というのはどのようなものがあるだろう。たとえば、サスペンス・推理・サイコのようなシリアス系、友情・恋愛・ドキュメンタリーのような感動系、バトル・レース・変身ヒーローなどのアクション系など多種多様なものが考えられる。もちろん一意的なジャンル分けはできないし、実際にはオーバーラップしていることも多いだろう。しかし、逆にだ、ギャグとオーバーラップしていない漫画作品というのはなかなか思いつかない。(私は漫画に詳しいわけではないので、そもそもこんな文章を書くのがおこがましいのだが、ギャグ漫画好きは自負しているので臆面もなく以下のような人物を知ったように語るのをお許しください。)赤塚不二夫はじめ、漫画と笑いという要素はいかにも不可分なものとしてとらえられるが、どうだろうか。戦後漫画の祖と呼ばれる手塚治虫についてもそうだ、かのシリアスな名作ブラックジャックについてもギャグは含まれている。戦前の作品であってもそれはあまり変わらないように思える。たとえ劇画の風刺絵にしったってそこには笑いが存在したはずである。はてさて、偉そうなことを言ったが、もちろん過去にはシリアスな話のみを純粋に描こうとした作品も多くあっただろうなということは簡単に想像はつく。しかし、現在残っている多くの作品はそのような作品ではない。とすれば、過去100年も満たない漫画の歴史を支配し続けたのはギャグ漫画といっても過言ではないのであろうか。漫画はその絵の性質からだろうか、ギャグとの相性が非常によかったのである。

2.元来のギャグ漫画
はてさて、ギャグと一口にいっても、漫画に様々なジャンルがあると同様に多くの切り口を持っている。自分の知っている作品で一番最古のものだろう、「サザエさん」については日常生活に潜む笑いを四コマで見事に描いて見せる。もちろん、アニメ版についても見事な面白さだ。アニメ版については脚本家が相当頑張っていると言える。たった4コマの漫画をおよそ8分間に引き伸ばしているのだから。もしも原作通りにアニメにした場合、一週間のための一本で、新聞連載3ヵ月の漫画を費やしてしまうことになるそうだ。話がそれたが、とにかく、生き残る作品にはギャグがある。戦後の代表作としては天才バカボンがあげられるだろう。50年代くらいの人々はバカボンを見て育ったのであろう。自分は生まれていないが。あるテレビ番組で日本のアニメの中でどれが一番海外(の一般人)受けするかという企画があったのだが、天才バカボンは見事に一位であった。キューティーハニーなどの色気物はアニメ耐性のない人には評判が悪く最下位であった。このように、漫画にあまり触れることがない世代にとっては、シリアスな話や色気のある話というよりかは、ギャグの話の方が導入としては入りやすいのかもしれない。それはおそらく、漫画という絵の性質なのではないか。

3.不条理ギャグ
 ちょっと古い作品での自分の考察は上記の通りだ。とはいっても過去のギャグ漫画と現在のギャグ漫画は大きく違っていると思わないだろうか。私の言う昔のギャグ漫画というのは、登場人物の行動による面白さ、つまり人間の生活に潜む笑いである。私の好きな現代のギャグ漫画というのは、いわゆる、シュールギャグ(理不尽ギャグ)である。ある程度ストーリーに準拠しながらも、それが一般的な常識や脈絡というものを持っていないギャグ漫画のことである。自分が一番好きなのは澤井啓夫のボボボーボ・ボーボボである。この作品は、主人公がマルハーゲ帝国を倒すために戦うというバトル物のストーリーを持っているものの、理論理屈などは一切なく、その場のギャグのノリで勝ったり負けたりするのである。突然、何かに変身したり、体が真っ二つになっても生き返っていたり、ニンジンにしばかれていたり、まったく意味が分からないといってもよい。時には、バトルに完全勝利したと思いきや次のコマでなぜか体がぼろぼろになって負けている、というギャグまである。このようなシュールギャグはうすた京介の「すごいよ!マサルさん」の影響が大きいと言われている。この作品も随分とギャグが意味不明で、世間を騒然とさせた。おそらく、このような作品を我々が面白いと感じていても、サザエさんやバカボンを見ていた世代は全く面白いと感じない。それは、時代が移り、若者と大人の育った漫画環境がそうさせるのである。たとえば、「ぱにぽに だっしゅ」なんかのギャグ作品は、最近のアニメ文化の知識がある程度ないと享受できない作品であるため、一般うけしにくい。…ともかく一口にギャグといっても、昔と今とでは大きく変化をしているのは明白だということである。

4.ギャグと属性
 勝手に語ってきたが、明らかなギャグ漫画ばかりあげているので、いまひとつピンとこない者も多いかもしれない。確かに、ギャグは漫画のなかに少しはあるかもしれない。しかし、現在進行形の漫画作品は先にあげたような日常ギャグ・シュールギャグであろうか。私は最近の作品の多くを見てどちらにも属していないと思う作品が多い。もちろん、それらの作品が漫画から外れているとは言っていないが、20世紀のアニメとは一線を画すものがあると思う。たとえばシティーハンター。これはハードボイルドなアクション(アニメしか見たことない)だが、獠が女にうつつをぬかすところや、それに対して香が100tハンマーで殴るようなギャグ要素が不可欠と言える。しかし、そのようなタイプのギャグは今のアニメ作品には少ないように思える。理論が飛躍しているようにも感じるが、今はギャグではなく萌えが漫画を支配しているといってもよいのではないか。
 何を言い出すのかと思えば、これまた当然のことを…。と言われても仕方がないが、共通する部分があるように思える。今まで散々、「漫画の根源には笑いあり」のような主張をしてきたが今の状況をかんがみてみると、「漫画の根源には萌え」ありと言えるのではないか。私の言う萌えとは、キャラクターに萌えることができる作品という広義の萌えではなく、現代の「小さな物語」的属性分類されたキャラクター中心の物語のものを指す。現代の漫画は数人の登場人物が、物語のなかでコントのようなものを繰り広げる作品は少なく、キャラクター中心の物語が盛んであると思う。それはたとえば、ストーリーがキャラクターを“立てる”ためにあるような現象のことである。ツンデレキャラならそれを示すためのストーリーが構築されるのである。それは単に、シナリオだけの問題ではない。絵柄に関してもそのような属性漫画に最適化された絵柄が主流になっている。具体的な個所を上げれば昔の漫画は今より、もっと目がシンプルに描かれていた。そちらの方が、ギャグの表情が描きやすいことは言うまでもない。今みたいなオメメキラキラ状態では、ギャグ顔を表現する際には何らかの漫画的記号を使用しないことには難しいとさえいえる。時代が笑いから萌え、ギャグから属性に移ったことにより、シナリオや絵柄が変化した。つまり、漫画界全体の雰囲気を決定づけるジャンルが、21世紀になって変わったのだと私は考える。

5.ギャグとコメディ
 そうは言っても、現在もアニメの中に笑いはあるではないか!そう思うのも無理はない。私の言う属性漫画・アニメにおいても笑える作品はたくさんある。では何が違うのか、ギャグとコメディの違いについて考えてみよう。ギャグというのはレトリックや奇矯な行動によるものである。コメディというのは人物の人間関係や言葉の掛け合いの中で生まれるものだ。まぁ言葉の意味に関しては諸説あるので、ここで使われる意味は一般には通じない。だが、この意味では20と21世紀の漫画の違いについて当てはまっているようではないか。20世紀的漫画の人物たちは必ずと言っていいほど奇矯な行動や、面白い名前やセリフを持ってはいなかったか。一方、21世紀的漫画についてはキャラが面白いと思われる個所はその属性にすべて内包されてしまっている。このような状況になればこんなことをするキャラクター、というように利己的なギャグではなく、周りの環境に応じた行動(たとえば好きな人の前では変な態度になってしまうツンデレ)によって笑いが生み出される。それはもはや笑いというよりかは萌えと言ってしまった方がしっくりくるではないか。過去の笑いはキャラクター性の中に取り込まれ消滅してしまったのである。
う~ん。最後までうまく纏まらなかった感じは否めない。まとめると、ギャグという漫画のもつ独自性が、昔より薄れ、今はキャラクターという性質がそれに代わって生まれてきているのではないかということだ。

      おわり 


X.追伸
まぁ、適当に頭にもやもやと浮かんだものを無理やり文章化しただけなので(いつもそうだが)、あまり深くは考えていない。この文章を読んでよくわからなくてもまぁ、赤槻もよくわかっていないということ。間違っているなぁと思ったことは指摘してもらえるとうれしい。あと質問も歓迎。この見方についてしばらく考えてみることにするが、そのうち忘れそうな気もする。何か明確な答えが出たらその時にまた、新しく記事を書くことになるかもしれないので、その時はまた読んでくれるとうれしい。
 
 
 
参考文献
『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』(東浩紀、講談社現代新書、2001年)
『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛、早川書房、2008年)
アニメとは何か(辻真先、松籟社2009年)
対訳サザエさん①(長谷川町子,ジュール ヤング,ドミニック ヤング、講談社英語文庫)
天才バカボン(赤塚不二夫、講談社バイリンガル・コミックス)
ボボボーボ・ボーボボ1~21巻(澤井 啓夫)
セクシーコマンドー外伝すごいよ!マサルさん(うすた京介)
世紀末リーダー伝たけし(島袋 光年)

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探偵オペラミルキィホームズ 第十二話(最終回) 感想

今期一番楽しかったアニメが終わってしまった。

何とも言えない感慨。この作品の最初の方とは違って、後半は違和感なく普通に楽しめました。

というわけで最終回「ミルキィホームズの帰還」です。
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あまり突っ込みどころはなかったので包括的に適当に。(最近このスタイルが多い)突っ込みどころがないのではなく、突っ込むべき事象に慣れてしまっているのが真実だという事には気付いていますよ。
一言で言うと意味不明。これ前から言っている気がします。
今まで会長の目的は伏せられてきましたが、結局最終回で明かされた会長の真の目的は、ミルキィホームズに好敵手であってもらうことであったようです。という事は結論、「アルセーヌはマゾ」。そんなオチでいいのかよ!と思い、別の理由があるのではないかと勘繰っていましたが、トイズの戻ったミルキィホームズを見て色っぽい声を出しているところからして、この人は真正のマゾだとわかります。残念。もっとインテリジェンスな感じの理由があるかと思っていた。
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そして連続するバトルシーン今までできなかった事に不満があるかのように、色々やってますね。
しかし、幻惑を実体化するとはこれいかに。もう勝負の収集がつかなくなってしまうではないですか。うえきの法則のように「理想を現実に変える力」がラスボスっていうのはいいですけど、いい回収の仕方ってもんがあります…………………………いやこれは回収なのか?ミルキィホームズではバトルの回収の仕方は、アルセーヌがアンリエットだとばれることでバトルが中断されることです。「え~。それならもっとバトル短くてもよかったのでは?」と思いますが多分バトルがやりたかったのでしょう。あの奔放さを見ればわかります。そして奔放にやるために幻惑の実体化という設定を作ったのでしょう。なんという欲望重視。しかし、最後の元気玉とカメハメ波は自重しろ。あとエリーさんは面白キャラ過ぎる。
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ばれる理由がまたひどい。おっぱいの感触で分かるとは……しかも、ただその伏線のためだけにミルキィホームズは全員シリーズの中でアンリエットのおっぱいに触れているという、めっちゃ手の込んだ伏線。それ、必要な伏線か?
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最終回っぽい、いい話に感じさせる演出が多数。
①子供の尊敬の瞳。これは正直今回の話の中で一番好きな場面と言っても過言ではない。世間の人々がミルキィホームズを見ているか。普通のアニメでは不必要な挿入であり、あえてそれを描くことは閉鎖的空間を好むセオリーとは反しています。これがあるだけでぐっと世界観が広がり、現実感がわきます。普通はこの発想になりません。
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②大気圏突入。時に意味がないのにもかかわらずバトルフィールドが宇宙になっているのはこれが理由かな。大気圏に突入するシーンっていうのはなんとなく感動してしまうものです。しかも、アイリーンが流れ星だなんて指摘しています。なんとなく最終回っぽく回収しようとしているものを感じます。全然めちゃくちゃに見えても演出の方法は心得ている。スタッフの無駄な力量を感じます。
※これは最終回っぽくしたのではなく、009の終わり方のパロディでした。すみません。009は地上波で見ていたんですが…忘れてしまうものですね。いい終わり方じゃないですか。
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そしてバトルの後の後日譚。これがない作品は評価が常にワンランク低いです。
ミルキィホームズの場合。MHはアンリエットがアルセーヌだったという記憶を失って、トイズも失ってすっかり元の通りになってしまいました。しかし、アンリエットがまだ期待を込めて綺麗な部屋で暮らす許可をくれます。まだこの4人のダメダメな生活は続くのです。記憶を失うくらいなら、最初からばれるということは必要ないのでは?ただバトルを回収させる要因だったのか。それはともかく、最後の最後で突然新キャラ森・アーティ登場。これは、アーティを次のラスボスに据えて新シリーズの始まりですな。もともとホームズvsルパンという構図が少し変だったのです。ホームズvsモリアーティという構図の方が自然。とにかく、2期!2期!
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最後なにをしたいのか分からないけど、ミルキィホームズたちの笑顔が見れて僕は幸せでした。
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それでも町は回っている 第12回 「それ町」 感想

終わった…。

それ町最終回。
放送開始時からの予想どおり、歩鳥が天国に行く話で終わったな。
だってそれ以外に、最終回らしいものがないものな。
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それ町の原作はかなり面白い。一見日常系にも見えるが、ギャグ漫画である。それも、まさるさんから始まるシュールギャグの系譜ではなく、計算されつくしたギャグ。ある意味、ミステリー小説を読んで謎解きをしているかのような、オチ、トリックとリリック。漫画を読んでいるにも関わらず、漫画らしい流動感、動きというものはない。それゆえに感じたのは、映像作品になったときに生まれる時間という要素。漫画の場合(小説も同様に)、シーンの続く時間は、読者の読むスピードに大きく依る。しかしアニメの場合、視聴者が見ていようがなかろうが、映像の能力に長けていようがなかろうが、関係なく間合いは一定である。ゆえに、完全に個人の求める最適スピードに合わせることはできない。それによって、テンポが早過ぎる作品では理解が追い付かない可能性がある。またもう一つの問題点として、漫画は文字を含んでいるということである。漫画を読むときは絵と文字を同時に見る。正確に言うなら、紙に印刷されたインクを、最初に文字と絵に分類してから認識するため、オチの理解がしやすいのです。もっとも、文字を先に読むか絵を先に見るかは人それぞれですが。しかし、アニメにおいては文字表現は一切使われません。普通はそうなのです。シャフトは絶望先生始め記号化に余念がありませんでしたし、映像化不可能と言われていた化物語をそれを逆手にとってアニメ化したという経歴がありますが、それ町に関しては尾石がいないので、文字化はほとんど行われていません。監督も新房じゃないですしね。正確には新房ですが。話を戻しますと、文字表現がないアニメではリリックによるオチは伝わりにくいので、視聴者がオチを理解するためのタイムラグというものが少なくとも必要になります。もちろん、絶対的に正確な時間間隔があるわけではありませんが、なるべく多くの人に理解してもらえるように最適化を行わなければならないのです。そういうことをしなければ、それは原作を知っている人にしか楽しめない残念なアニメになってしまいます。実際そういう風に開き直っているように見える作品もありますが、それは自己満足ですね。その間。ギャグの間というのが、それ町のアニメ化には重要なきがしていたのですが、今一つ上手くいってません。自分だけの感覚なのかもしれませんが、間合いがちょっと長かったり短かったりします。具体的に言うと面倒なので省きますが私は自分の中にあったテンポの店舗とアニメのテンポがいまひとつ一致しないわけです。そこをもうすこし、改善してほしいと思っていました。

歩鳥が死ぬ話は原作でも結構力が入っていて、最初とオチこそギャグっぽいものの、内容はひどく哲学的です。作者のあとがきにも「死についてかんがえてみた」なんてことが書いてありましたし(たしか)、それ以降のそれ町の展開にも大きく影響します。人間は死んだらどのようなことが起こるのか。その人の知り合いはどのような気持ちになるのだろうかという事を描いていました。
特にこれといった主張はないのですが、アニメ化にあたって多くの演出が追加されました。特に感じ入ってしまったのは森秋先生が、歩鳥の答案を見て、星のところに涙を落とすシーン。これは映像でなければできない演出であるし、非常にいい間合いをもって涙を落としている。もっとも、個人的には涙を流す顔を見せるのは演出力がないと評価が下がるので、印象が良くなかったのですが。たけるが泣き出した時点でかなりやばかったのですが、森秋先生のところで完全に涙腺崩壊してしまいました。久しぶりに泣いた。よかったです。
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ゼリー島アニメ化おめでとうございますwww
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総合的な感想。
それ町は原作ファンだったので期待していましたが、上記に述べた間合いの理由により、あまり評価は高くありませんでした。しかしオリジナルストーリーは結構気に入っています。また、それ町はすべて白黒なのでそれに色がついたことにより、無機的で特徴(色の)のなかったそれ町の世界観が、一変しやわらかい感じになっていたのがとてもよかったです。まぁこれからもシャフトのスタッフには頑張ってもらいたい。

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パンティ&ストッキングwithガーターベルト 第12回 感想

今週も来ました!
といってももうずいぶん時間が経ってしまいましたが・・・・
テストだったのですみません。


パンティ&ストッキングwitガーターベルト 第12回です。
OPがどんどん短くなっていきますね。最初から30秒しかないのに…。来週は1秒とか?
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Aパートは「D.C.コンフィデンシャル」
黒幕らしき立ち位置だった市長と、その部下らきデーモン姉妹の掛け合い。デーモン姉妹が市長にゴーストの報告をするという形で、今までの話を総復習。いわゆる新カットの多い総集編というやつです。いきなり総集編を始めるものだからてっきりこれを折り返し地点にして、もう1クール続けるつもりなのかと勘繰ってしまいましたがそのような情報はどうやらないようで。もっともネットの評価も上々のパンストですから、二期がないとは言えない。しかし最終回は最終回らしく、「続く・・・」みたいなことがないのが、アニメの美学ですよね。

ふつう総集編というのは、DVD化した時には収録されない(最近はマニアの希望も多く、話の流れにそぐわなくても特典映像として入れることも多いが…)。なぜなら、作品を通しての全体の物語にたいして干渉しないからである。あくまでも総集編で行われることは、今までのエピソードの断片であり、サンプリングされた情報であるから、今までの話をすべて見直せば、総集編の存在は不必要である。もっとも現実問題、週一で放送されるアニメは話題になってから見出したので、最初の方は見ていないというのが、実際の現象であるから、最終回や新シリーズを目前にしたときに、一回総集編を行い、見ていなかった視聴者に話の流れを説明することができる。また、見ていた人にとってもおさらいができるのである。昼間のドラマ特番と同じようなものである。そのことを今回のパンストのDCコンフィデンシャルに当てはめてみると、確かに最終回を目前にして、今までの話を振り返っているようである。とくに放送前から人気があったわけではないので、最初の方を見ていない視聴者も多かろう。しかし、パンストのストーリーは完全に一話完結型である。よって二人が堕天使で、ゴーストを退治するという構造さえつかめればほとんど視聴には問題がない作品ばかりである。恥ずかしながら自分も途中から見た類なのだが、特に抵抗はなかった(最初に見たのは「トランスホーム」)。しかし、そうではない作品も確実に存在する。今だと閃光のナイトレイドとかはその分類だろう。つまり、パンストにこのような総集編は必要がないだろう。この話が不要だと言っているわけではない。この話は別の意味で重要な役割を持っているのである。それは、今までの話を強制的にまとめるということである。まとめるなら、普通の総集編と変わらないではないか。そう思われてしまうかもしれないが、そうではない。普通とは違うのである。普通は物語全体に大きな流れがあり、それをまとめる形だが、パンストの場合、まとめられるべき大きな流れ自体が存在しないのである。ゆえにそれを補う形で、大きな流れを強制的に付与したのである。具体的に言うと、ラスボス的存在である、市長の登場である。今までの話では市長はほとんど登場しておらず、デーモン姉妹が仕掛けてくる時も、完全に個人的な恨みや、天使と悪魔という形式的な宿命によってのみ動かされていた。そちらの方が視聴者としてはわかりやすいが、市長の存在感は全くない。最終回にあたって市長の立ち位置を確定すべく、デーモン姉妹やゴーストを後ろで動かしていた、という設定をコンフィデンシャルレポートによって付与したのである。ゆえにこのDCコンフィデンシャルがなければ次の最終回につながる大きな流れが生まれなかった。ゆえにこのエピソードは作品にとってはエッセンスであり、通常の総集編とは若干違った意味を持つのである。
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ちょっと話がそれるが、市長というのは日本のアニメにおいてはあまりなじみがないキャラクターである。日本のアニメーションで市長がメインで登場する作品を私は思い浮かべることができない。だからかもしれないが、この市長というフレーズ自体が、パワーパフガールズのMr.mayorを思い出させる。まぁ誰が見てもパワーパフガールズを思い起こさずにはいられない作品だろう。あとInvader Zimか。これは訴えられてもいいレベルだと思うんだが、大丈夫なのか?

そんな心配はさておき、Bパートである。「パンティ+ブリーフ」。タイトルの演出かっけぇ
前回の最後からほのめかされていた、二人の天界への帰還。ついにその話のようです。
ストッキングは真面目にゴースト退治をする一方、パンティは糞ビッチな行いばかり…。もはや隠す気もない、セックスセックス。結局、そんなことばかりしていたので、ヘブンコインは集まったものの天界に帰れたのはストッキングのみ(天井を突き抜けるのは自分的にはお気に入りの演出)。パンティは追試として、ブリーフとゴースト退治を続けることに…。この展開は面白い。そしてなんとブリーフがイケメンの御曹司であることが判明!そして、パンティに告白!いい雰囲気に…こんな展開誰が予想した?最高ですね。
そこに現れる市長。どうやらダテンシティの悪魔の扉(らしきもの)を開く鍵が、ブリーフのナニだっだようです。確かにブリーフのナニはすごいらしいというフラグはありましたが(ランジェリーレースで)、なんとも変なことになりました。しかし、さらわれるブリーフ・天使の能力を失うパンティ……というところで終って初めて「次回に続く」ですね。天使の輪ってわれるんだww
パンティとブリーフの距離を急激に近づけて、市長を登場させて引き離す、というのをBパートのうちにやってしまうのですから大したものです。来週はパンティが愛の力でブリーフを助けに行くのでしょうか?ストッキングは出るのでしょうか?いろいろと期待が高まる終わり方でした。
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いよいよ最終回。この引き方だと相当期待しちゃいますから、すごいラストを用意してるんでしょうね。
「ゴースト~ダテンシティの幻~」を超えるものを期待していいいですよね。
最後は適当になりましたが、期待して来週を待ちましょう。



※今回は、大学で書いたので、録画を見ながらの作業ではありません。内容やサブタイトル間違っているかもしれませんが許してください。

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