アニメのことが大好きな大浦のブログ。
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感想:
東浩紀を最初に見たのは、NHKのサブカルチャー番組「ザ・ネットスター」にコメンテーターとして出演していた時。そこで東は様々な作品を独特の視点から鋭く語っていた。
とくに面白いと思ったのは、ケータイ小説「恋空」についての解説である。漫画・アニメなどを好むオタクも、この小説を面白く読めるというのである。東は「恋空」を読んだとき、ヒロインの田原美嘉に息吹風子(CLANNAD)のイメージをあわせたという。あたかもノベルゲームを読んでいるような感覚で読めたということであろう。もちろんこれは東自身がCLANNADという作品(とくに風子に対して)思い入れがあったと言わざるを得ないが、もっと根本的な構造に因があると考えられた。
以下は、東の論でも私の論でもなく、清水義範(しみずよしのり・愛知淑徳大学教授)の論文「ケータイ小説とは女の子の孤独を癒す共通言語。だが〈文学〉は脅かされる」である。
彼らが一番恐れるのは、裸の自己が孤独にさらされることである。ふつう文学はその種の孤独と直面するところから出発するのだが、逆にケータイ小説は孤独を物語の鋳型で包んで共有することで、孤独を忘れさせてくれるのである。そこには〈文学〉のような公の価値観や目標が存在しない。ケータイ小説に参加することで得られる満足感はどこまでもパーソナルなものであり、手帳に友人のプリクラが増えていく満足感と似ている。
つまり、ケータイ小説の執筆の目的は自己の孤独性に向き合う文学的姿勢ではなく、自分が他人と一体になっている安心感である。よってケータイ小説の主人公には自己がない。ゆえに風子という女の子のイメージ(女の子のイメージが風子である東の脳内は問題視されるべきかもしれないが)を投影するわけである。
このような視点を(なんとなくの感想だったにせよ)持っている東はオタクの文化論者としては第一人者であり、長いこと著書を読みたいと思っていた。これが、その最初の一冊である。
内容は次のようである。
まず、オタク文化を年代ごとに分けていた。小さな物語(各々のストーリー)を楽しむ80年代、大きな物語(作品一貫の世界観)を追い求める90年代、そして物語を解体し再構築するデーターベース型のゼロ年代。これらは非常に分かりやすくかつ納得できるものであった。そして本筋はポストモダン型のゼロ年代である。アメリカで始まった大量消費社会が生み出したポストモダンが人間をより動物的に仕立ててゆくことを解説し、それが日本のオタク文化にもあてはまることを示した。そしてより詳しく、現代のデーターベース型消費が無数の同人作品(シュミラークル)を生み出すことで、オタクの作品消費体系が変化したことを語った。ポストモダン社会、ゲーム文化、さらにはオウム真理教に触れることによって、その起因はオタクの単純な好みではなくポストモダンが生んだ集団的行動であることを説明した。ヘーゲル哲学からの人間の行動に対する考察は納得させられた。
最後に余談として、動物化の変遷をノベルゲームの超平面性や可視性と重ね合わせ、あるゲームのストーリ(名前忘れた)と本書で述べられた、文化遷移が非常に似通っていることをあげて締めた。
正直、多少難しくて読むのに1週間近くかかっている。
序盤は別の文化論からの引用も多く今までの経緯を知っていないと辛い部分もあった。しかし全体的に見れば十分理解できる内容だったと思われる。
現代のオタクがどうして二次創作を好むのか、に関する説は多々あるが、これは非常に包括的で人間の根本とまた世界の社会構造を根元に持っているためハッとさせられた。ヘーゲル哲学の支援者を持ち出して論理を展開する部分と、最後のゲームとの類似性には本当に舌を巻いた。
少し詳しく書きすぎたが、まだ理解していない部分が多いのであまりアテにしないでほしい。続編が最近出たので、割とホットな本のようであるから、冷めないうちに「ゲーム的リアリズムの誕生」のほうも読もうと思う。
オタク文化に対する考察について興味があるなら、割と早めに読んでおいたほうがいいのであないかと思う。
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