エステ 求人 アウトソーシング   ひとしきりのひとりごち アイドルマスター 賛否両論についての考え。 忍者ブログ

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アイドルマスター 賛否両論についての考え。

今日も勉強さぼってアニメ見ている赤槻です。
一日平均5本は見ていると思います。

現時点で2011年夏アニメも第三話まで放送されています。
今期の夏アニメも面白そうなものが多いですが、今回はアイマスについて語りたいと思います。
これが終わったらちゃんと勉強します必ず。
うん。


1.アイドルマスターという作品群
アイドルマスターと言えば、誰もが知る通り、アーケードゲームから始まったナムコのゲームシリーズのことである。アーケード版が反響を呼び、コンシューマ機に移植されたようだが、どちらかと言えばアーケードでやっている人よりもコンシューマ機から始めた人が多い印象だ。Xboxで主に出ているようだが、アイマスシリーズが箱のゲームの中でかなり人気が高いことは明白だろう。アイマスのためにゲーム機を買ったという人も聞く。自分としては、TVゲーム機はかなりのゲーマーのものだと勝手に思っているので、ハードルが高く感じている。一方、携帯ゲーム機、PSPとDSにも展開しているわけだが、これにより、もう少しアイドルマスターが手軽になったと感じ、さらに広いゲーマー層に受け入れられるようになったと考える。もっともDS版はどうやら別物というファンの意見があるそうだが。申し訳ないが自分はゲームはまったくやらないアニオタなので、間違ったことを言ってるかもしれないが許してほしい。
ニコ厨である私は、アイドルマスターはどちらかというと、ゲームよりニコニコ動画のMADでよく見かけることが多く、様々な音楽にアイドルマスターの画面を編集して振り付けを付ける動画がたくさん上がったことによって、さらにアイドルマスターの知名度は上がって行ったと思われる。歌のジャンルにおいても、かなりの知名度を誇っていたはずだ。自分はやよいのもじぴったんが一番最初だった。(ちなみにミクはロイツマ→みっくみくだった。)そのあとも、アイドルマスターのネット上での人気はうなぎのぼりでまったくファンでもない自分でもキャラの名前が大体わかってしまうようになっていた。同人誌の活動においても、アイドルマスターの攻勢は素晴らしいものがある。コミケットにおいても、東方・アイマス・ボーカロイドは3大巨頭といって間違いない。今の小さな物語的なヲタク社会において、アイマスは比喩の意味でもアイドル的存在になっており、大きな指針を示している。

2.ゼノグラシア
このような状況の中で、発表されたアイドルマスターのアニメ化。それが、アイドルマスターXENOGLOSSIAである。この作品は大いに批判された。それもそのはず、ファンが期待に胸を躍らせたアニメ化であったはずなのに、原作とは全く物語が、違うロボットものであったからだ。個人的には、絶対女の子がかわいいだけのアニメを作ることができないガイナックスに対しては、むしろ個性として考えていたので、当然の結果であり、何の失望もなかったわけだが、世間はそうはいかなかったようだ。原作で築かれた基本設定を破壊してまでのアニメ化はもともと発展していた、上記のネット上での作品群との相性が悪く、淘汰されてしまうのは当然であった。ファンの間ではゼノグラシアは黒歴史とされ、プロジェクトの方でも、「なかったこと」にされている気配が強い。やはり、現代のアニメは原作に忠実であり、原作の焼き直し、もしくはキャラ押しのストーリーしか認められないということなのかもしれない。80年代のような厳密緻密なアニメの設定を押したアニメから変化し、様々なメディアミックスに対応する流動的な00年代アニメに変化してきたように思えるが、設定の改変が許されるというわけではなく、あくまで「焼き直し」しか認められないのが、悲しきなか、現在のアニメ化というものの実態なのである。それはさながら、実際のアイドルがスキャンダルによって貶められてしまうようなもので、理想のアイドル像、ファンのイメージしている為人からずれてしまった、アイドルはもはや信仰の対象ではなくなってしまうのである。これは、資本主義経済の中で動物的衝動が起こす、需要と供給の均衡が取れすぎてしまった弊害なのであろうか。ファンは裏切られることを望まず、自分がほしいと思った作品が手に入ることを望んでいる。一見理想的な関係のように見えるが、いったいそこにはアニメの芸術性というものはあるのだろうか。

3.アニメ「THE IDOLM@STER」に対する期待
これまで、述べてきたようにゼノグラシアに裏切られたファンたちであったが、この初めてのアニメに何を期待するのだろうか。まず一つは、ロボット作品ではなく、あくまで原作に準じた設定であること。これは、やはりゲームファンにとっての最重要ポイントである。ゲームで培ってきた世界を壊されてしまっては全く別の作品として楽しまなければならず、当然「期待」していたこととは相反するにきまっている。次にキャラクターである。物語はもちろんのこと、キャラクターも壊されてしまっては仕方がない、ゲーム内でプレイヤーが意識していたキャラクターの性格に相反することなく作らなければいけない。作画に関してもそうだし、ストーリ上予想されえない行為を取るのは「期待」に反する。これを守って脚本を書くのはなかなか難しい、なぜならキャラクターの性格は、物語中の行動で示されるのではなく、キャラクター像あっての脚本になってしまうからだ。キャラに合わせてシナリオを構成することのむずかしさは今までのキャラクターアニメが象徴しているであろう。キャラアニメが、凡庸なストーリーになってしまうのは当然そのむずかしさに起因している。アイドルマスターならではの現象と言っては過言だが、作画・性格と同等に重要なのが声優である。やはり、歌という声がメインのゲームである以上、声優が変わってしまうのはファンにとっては大きな変化であり、人物像より重要なファクターである。その点、アニメはゲームの声優を完全にそろえることで、お膳立てはしっかりしている。これは相当難しいことだっただろう。メイン12人の声優の都合をつけるとは・・・。当然キャラが維持されているうえで、自分が好きなキャラクターが出てきてくれることも重要だ。メインが数人に絞られてしまって影のキャラクターができてしまうようでは、悲しむファンがいる。なにせアイマスのキャラクターはどれも魅力的だ。それに、ゲームはやりこみが深く思い入れも相当であろう。最後に、歌のパートである。ゲーム原作として忠実に再現をするのであれば、シナリオパート、歌って踊るパートを再現する必要がある。やはり、アイマスは曲に対してもファンがついている以上歌が流れないと盛り上がりに欠ける。
原作通りの理論には少し違うが、ゲームでは見られなかったキャラクター同士の掛け合いが見てみたいという意見もある。アニメ以前にもこの欲求というのは当然あり、それを人は同人活動などで発表している。当然、その中で新たに生まれる物語。そういった不特定多数の物語に対する一致性も求められていると言える。

以上のような期待に応えるために、アニメを作ると当然ファン以外の人が楽しめない作品になってしまう。そのことについての話はまた今度にしよう。

(アニメ制作とは関係のない話になるが、放送時間の問題である。アイマスは関東区においてはTBSで木曜深夜25:55から始まる。緋弾のアリアの後釜である。この時間帯はどうしてもノイタミナ枠と重なっているので自分は生放送で見ていないわけですが、割とアイマスを見る人が多い気がします。それにしても木曜深夜は激戦区ですので、アイマスの気合の入れ具合もわかります。第一話が45分遅れて放送されたのは、ノイタミナ枠の視聴者に第一話を見せ、2話以降も見てもらおうとしたのかと勘繰っているのだが。)


また・・・長々と書いてしまった・・・
1話2話についても語りたいことがたくさんあるのだが、今回はこれくらいにしないとレポートが始められないので、終わりにする。

また今度。

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